9×9=81

@skuld9981が何かを投げるところ

“大学生”になるはずだった。

この記事はツイのオタクAdvent Calender 2018 24日目のものです。

 

どうも、すくるどです。最近はアイカツ!を見ています。どんな時もわたしらしくアリたい。

 

去年はクリスマスに記事を投稿し、今年はクリスマスイブに記事を投稿します。24年後には12/1に記事を投稿しているんだと思います。

去年の記事↓

note.mu

 

前提として、僕は怠惰な人間である。興味が無いことや好きではないものに対して頑張ろうという気持ちがまず湧かない。だから単位も落とすし生活が適当になってしまう。幼児だから仕方ないね。

 

高校時代もそうだった。勉強をしたく無さ過ぎて定期テスト勉強をサボり、一夜漬けすらも諦めるような生徒で、当然クラス順位は毎回40人中30番後半代であった。

そんな僕が受験勉強を頑張れたのは、勉強が楽しかったわけでも大学で学ぶことをモチベーションにしていたわけでもない。模試をゲームのように認識していたからだ。友達にテストで負けることが悔しいという感情が私を勉強に駆り立てていた。

 

受験勉強をする中で進路について考える機会は当然訪れるものである。私は当時ある学問に興味がありそこから進路を決めた。(元々筑波志望ではなかったのだがこのことに言及すると話が長くなるどころか本筋からもそれるので割愛する。)

そのような進路の決め方をしたからか、高校3年生の僕は大学で学ぶことを目標にしていた。が、今思えばそれは目標ではなく受験のゲーム認識の延長に過ぎなかったのだ。

 

その後、無事受験に合格し学類の新歓に参加したのだが、同期とそりが合わず交友関係を築けずに大学生活をスタートすることとなった。当初は交友関係が無かったことに対して「無理して交友関係を築く必要なんて無いな~」くらいの軽い気持ちだった。その気持ちは今も変わらない(だから今も学類に親しくしている友達はいない。)がそれによる弊害がある。色々な情報が回ってこないこと、周りがどう勉強しているかがわからないこと、そして何より重要なのが周りからの刺激の不足である。

 

上記の弊害により学問への興味はどんどん薄れていった。時々授業で面白いと思ったことがあっても授業以外では考えることはほとんどなかった。それについて議論できる友達がいなかった(それどころか一緒にご飯を食べる人すらいないのだから議論できるはずもなかった)ことが関係していたのだろう。

 

 

 

 

ここまで読んでみてこうは思わなかっただろうか。

「この人は本当に学問に興味があったのだろうか?」と。

 

 

 

 

まさにその通り。今考えてみると僕は他のものを犠牲にして学ぼうとする程には学問に興味を抱いていなかったのだ。僕にとってライブに行ったりアニクラに行ったりDJしたりすることは学問をすることよりも楽しいのだから。

 

その生活を続けるうちに学問への関心が薄れてしまった。授業中は興味を持って聞けているが授業が終わればそのことを考えることはほとんどない。グループワークではその場で考えて何かを発言しているが、実のところほとんど知識が増えていない。学年だけが増えていく。

 

元々学ぶ為に大学に進学したのに、どうして大学に通っているのかわからなくなってしまった。

 

今の僕はただ卒業するために大学に通っている。学びを目的とするのではなく単なる“学歴”を得るために。

 

このまま大学を卒業できるのか不安ではある。だが、不安であるだけでその不安を解消する為の知識を身につけようとも思わない。

 

今の僕は大学に行っているただの人だ、決して“学生”ではない。

今後勉強して行くビジョンが見えないし、そうなろうとも思っていない。だって苦労したくないから。このままナーナーで行けるならこのままでいたい。

変わるとしたらこのままでは卒業できなくなることがわかった時だろう。その時勉強できるかはわからないが。

 

 常に一抹の不安を抱えながら見て見ぬ振りをしながら騙し騙し生きている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だけど。

僕は”勉強”というゲームは楽しめないかもしれないけれど。僕にだって楽しめるゲームがあるのだと信じている。誰かと競争したりするものじゃなくたっていい。ただライブに行ったりオタクとしょーもない会話したりすることで日常が楽しければそれでいいんじゃないかって思う。

 

何かを成し遂げる必要性なんてない。何かを失敗したって、毎日を怠惰に過ごしていたって別にいいんだ。その思考自体が怠惰そのものでもあるかもしれないけれど。

 

最後にこのツイートで〆たいと思う。